加藤周一『読書術』

 評論界の雄が亡くなってから早一ヶ月。本書は未読だったので、借用して一気に読み終えました。

読書術 (岩波現代文庫)

読書術 (岩波現代文庫)

「おそく読む」こと

 「読書法」系の本は、たいてい、「いかにはやく、大量に情報を得るか」ということを主眼に書かれているわけで、本書も第4章は「速読術」について述べているのですが、むしろ本書の勘所は、いかに遅く読み(第3章)、本を読まないか(第5章)というところにあるのが特色です。
 これも裏返すと、

「本をおそく読む法」は「本をはやく読む法」と切り離すことはできません。ある種類の本をおそく読むことが、ほかの種類の本をはやく読むための条件になります。(中略)ある一つの題目について、ある一つの領域のなかで、どうしても必要な基本的知識、また親しむべき考え方の筋道は、そうたくさんの種類があるものではなく、基本的なところを十分に理解し、また基本的な考え方に十分慣れれば、そのあとの仕事がすべて簡単になるといってよいと思います。

(59〜60頁)ということで、「急がば回れ」的発想なのです。
 それはそうだな、と得心しました。たとえば、「『全唐詩』に目を通した」とか「二十一代集は全て読んだ」という人、たまにいますよね。こういう読書家には、加藤氏のいわゆる「古典」(39頁など)がベースとしてあるために、「たくさんの本をはやく読む」ことが可能になっていると考えられます。三代集(『古今和歌集』・『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)や『堀河百首』を味読すれば、私自身の実感としても、古典和歌を読解するスピードは飛躍的にあがります。また、漢詩の場合は、普通は「俗書」扱いされますが、『唐詩選』・『三体詩』・『唐詩三百首』あたりをがんばって読み通しておけば、『全唐詩』に目を通すことも無謀な試みではなくなるでしょう。・・・かといって、私は二十一代集も全唐詩も読破してはいませんが。

「本を読まない」こと

はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。したがって、「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません。もっとも、ここに百冊の本があるとして、そのなかの九十九冊を読まないですませるということは、つまり、一冊を読もうと決めるのと同じことです。読む本の選択と読まない本の選択とは表裏の関係にある。

(98頁)ハッとさせられる警句です。読むべき一冊に出会わずに、九十九冊のなかで時間を浪費しているのではないか、そういう懼れを抱いています・・・。たとえ、行き帰りの電車内の時間潰しの一冊であっても、おろそかにはできませんね。

蛇足

作家の杉浦明平さん(一九一三―)は、月に一万ページを読むのを原則にしている、といううわさを聞いたことがあります。

(90頁)加藤氏も、高校時代に「一日一冊主義」の計画を立てたものの、二〜三年で挫折したと告白しています。むしろ、それほど続いたのが驚異です。私、三年前には同様の目標で三日坊主でした。
 月に一万ページであれ、一日一冊であれ、自らに読書を課すのは東洋の伝統なのでしょうか。南宋陸游に「読書」と題する詩がありますが、そこに、

灯前目力雖非昔  灯前の目力 昔に非ずといえども
猶課蝿頭二万言  なお課す 蝿頭 二万言

の句があります。灯火を前にして視力は昔のままではないけれども、なお蝿の頭のような小さい文字二万語を読むことを自ら日課としているよ、といった意味です。
 今日は旧元日ですし、もう一度発奮する、か・・・?