アエネーイス

あの芝居のなかで特に気に入った一節は、アイネイアースがディードーに物語るところだ。ことにプリアモス王の最期を語るあたり。まだ憶えているなら、あの一行からはじめてくれ、ええと、ええと、そうだ――
「荒くれ者ピュルロス、ヒュルカニアの猛虎のごとく」――

ハムレット、第2幕第2場)

アエネーイス (上) (岩波文庫)

アエネーイス (上) (岩波文庫)

アエネーイス (下) (岩波文庫)

アエネーイス (下) (岩波文庫)

 岩波文庫版がリクエスト復刊されたので買いました。泉井氏による全編七五調の翻訳が圧巻。
 Virgil は高校のときに無理矢理、しかもいろいろな作品を断片的に読まされたので面白くも何ともなかったのですが、今改めて読みかえすと西洋古典の厚みを感じさせます。ダンテ『神曲』の地獄篇は『アエネーイス』に依拠していますし。

前の門には親父さんという虎、後ろの門にはおふくろさんの狼がいる。

ヴェニスの商人、第3幕第5場)上の安西徹雄氏訳は完全に意訳でして、これは原文では"Thus when I shun Scylla, your father, I fall into Charybdis, your mother." Scylla と Charybdis という海峡の魔女のコンビは『オデュッセイア』(第12巻)以来の伝統がありますが、シェイクスピアの脳裏にあったのは、直接的には、

それの右岸をスキュルラが、左岸を貪婪カリュプティス、
それぞれ占拠し日に三たび・・・

(『上』178頁)かもしれません。注意深く読んでいくと、短い句でも後世にさまざまなかたちで引用されるものや類想の表現を数多く見出すことができそうです。例のハムレットの「死ぬとは――眠ること」(第3幕第1場)の背景に「“死”の兄弟の“睡眠”と」(『上』370頁)を思い出してもいいし*1、「暗夜は海にうずくまり」(『上』18頁)が「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)と似ている、とか。

常に変って定まらぬ、ものこそ女ぞ、アエネーアース。

(『上』256頁)あたりは悪名高いほうで知られているでしょうけど。これを出典とするのが、フランソワ1世の、

フランソワ一世はまた数多くの恋人を持った事でも有名で伝説では有るけれど彼の寝室に「総ての女は変心する。女を信ずるは狂気の沙汰」と王がダイヤの指輪で窓ガラスに刻んだと言う。

http://www.k2.dion.ne.jp/~rain/newpage7.htm

 しかし、何と言っても、『アエネーイス』のなかで最も奮い立たせる名言はこれでしょう。特に苦境に立たされている人を励ますものです。

おおわが友よ、これを聞け。かつての苦難はわれわれに、
忘じがたいがもう神は、この苦しみに終末を、
与えられるにちがいない。堪えるに難い苦しみを、
忍んでくれた諸君らよ。・・・
心をなやます怖れなど、払い除けよおそらくは、
いつかこれを思い出す、ことも楽しいことになろう。・・・
忍べわが友、来るべき、
よき日のためにみずからを、しかと守ってゆくように

(『上』28頁)

*1:もっとも、これも『イリアス』に先行例がありますが