名著『絵師』と『絵巻の歴史』で勉強いたしました。
武者小路穣さん89歳(むしゃこうじ・みのる=和光大名誉教授、日本文化史専攻)11日、心不全のため死去。葬儀は15日午前11時、東京都港区北青山3の5の17の善光寺。喪主は長男知行(ともゆき)さん。
http://mainichi.jp/select/person/news/20101113k0000e060074000c.html
- 作者: むしゃこうじみのる
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近代以前の画人は、時代をさかのぼればさかのぼるほど、いわば主人持ちであって、作画はすべてその主人のためであり、主人の意向にそうようにくふうがこらされていたのである。しかも、その多くは組織された工房による製作で、作品のすべてに作家個人の意志や手腕が貫徹するとは限らない。それにもかかわらず、法隆寺金堂壁画のように、その初期からきわめてすぐれた結果をみていることは、近代人からみれば奇跡的といえる。
(217頁)
一九五六年(昭和三一)、ウィーンで世界平和評議会が世界の文化人十人を顕彰した時に、レンブラント、ハイネ、モーツァルトらとともに、一人の日本人が候補として選ばれたというので、新聞社からある美術史家のところへ電話がかかってきた。
「オダ・トヨとかいう画家だそうですが、どんな人ですか」
はて、オダ・トヨ?美術史家もちょっととまどったが、
「なんでも没後四百五十年記念だそうで」
というので、やっと気がついた。画僧雪舟等楊、本姓は小田氏と伝える。(中略)雪舟等楊というか、相国寺での職掌によって楊知客というのが正式のよび方なのだが、後代からは雪舟は禅僧としてよりも画人として尊敬されたせいか、しばしば画中に署名した雪舟の道号のみでよばれるようになり、印文にはみえる等楊の法諱はいつのまにか忘れられている。初めの笑い話も、ウィーンでこの法諱を本名とし、本姓が小田氏だからというので、TOYO・ODAと発表したことからおこったのである。しかし、日本で後代から雪舟としてのみ知られたということは、かれの絵画史上の位置とかかわって大きな意味をもつ。それは、かれが独立した画人としての地位を確立したからであり、それまでの習慣にはなかったことだが、画面に「雪舟筆」と堂々と署名することで、自己の作品であることを宣言したからである。十五世紀後半という変動のはげしかった時期に、日本の絵画史に“近代”を予兆するようなこれだけの重みをもつ画人の出現したことは、ここでかえりみる必要がある。
(111、113頁)
- 作者: 武者小路穣,日本歴史学会
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もともとこの引目鉤鼻という、一見単純化され、類型化されたような描法は、けっして単純でもなければ、まして稚拙でもない。太い眉も一筆でかかれたのではなく、淡墨の細い線で描いた上にだんだんに濃墨の細線をひきかさねて眉毛の感じをだし、細い一本の直線にみえる目は、うすい墨をひきかさねたところに、目をこらして見ないとわからないほどの瞳をうって、調子をとっている。(中略)いまの人から見ればどれも同じ顔で区別がつかないといっても、そのころの物語を知る受け手は、その装束や小道具からそれぞれの場面での位置を確かめえたはずであり、そのかくされた表情さえも読みとりえたはずである。
(45〜46頁)