語源や原義でポジショントークをすることのいかがわしさ 

 人を攻撃することがあまり好きではない性分なので、この話題はずっと避けていたのですが、もうみんな忘れた頃だろうと思いまして!
 昨年の「今年の漢字」にも選ばれましたし、流行語大賞のトップテンにも入選したのが「絆」(きずな)でした。
 ところが、巷に「絆」が氾濫することに反感を抱く人も中にはいたようで、様々な意見が飛び交っていたことを皆さんも記憶しているでしょう。「絆」を嫌う理由はいろいろありましたし、そのこと自体を問題視しているわけではありません。私が「んー」と思ったのは、「絆」に対する反撥を説明するのに、漢語「絆」の原義や和語「きずな」(きづな)の原義を取り上げた人が(少なからず)いたことに対してでした。曰く、「絆」(きずな)とは、元来、家畜や罪人を拘束するための綱のことである、と。切りたくても切れない束縛、強制的な束縛、それが絆である、と。そこから日本人気質論や現代日本文化論に飛躍した人もいました。
 お前の言っていることはなんとまあビミョーですね。
 なお、↑これは全く悪いことは言っていません。「お前」は、もともと、敬意を含んでいる人称代名詞ですし(「御前にも、いとせきあへぬまでなむ思しためるを、見たてまつるもただおしはかり給へ」『蜻蛉日記』)、「微妙」は、もともと、言葉でうまく説明できない優れたものという意味です(「夫微妙意志之言、上智之所難也」『商子』)。
 でも、そう言われても釈然としませんよね?当たり前だ。そういう意味で使っている現代人はほとんどいないからです。
 今年の漢字一字は「妙」です、となったら、本来は肯定的な意味でしか使わない云々と蘊蓄を傾けてくれるのでしょうか。
 現代では、「絆」(きずな)というのは、自分にとって大切な人や共同体に属する人たちとの恩愛にもとづく連帯感や一体感という意味ですし、それ以外の含意をふまえて使っている人はいなかったはずです。少なくとも今回のことでいろいろな人が発言するまでは。
 そういう一体感のようなものに危うさを感じる、あるいは、白々しくて好きになれない、あるいは、自分の個人的な問題として係累の枷が煩わしい、というのであれば、そう表明すればいいだけの話でした。
 もはや大多数の人が認知していない語源や原義を持ちこんで自分の主張を敷衍するのは多くの場合ペダントリーであって、無意味です(語源・原義が明らかになることでその言語話者の無意識的な認識のありようがあらわになることもあるでしょうけど)。
 そのような、有意義とはあまり思えない語源・原義講釈を滑り込ませる文章をたまに見かけます。原稿用紙を埋める以外の効用を見出しがたいのですが。