なぜこのブログで政治問題を扱わないか(今までで最長の文章)

私が政治への言及を避けてきた(端々にほのめかしはありましたが)のは、無用のトラブルを避けるということも、少しは考えにありましたが、もっと本質的な理由があります。
政治問題は、特に、東アジア諸国のそれは、アホらし過ぎてコメントしようがないわけです。いじり甲斐があれば良いのですが、笑いすら取れそうにありません。
大変印象に残っているK先生の忠告があるのですが、「何かを批判するときは、批判に値するものだけを取り上げろ」、と。要するに、ある論議に対してダメ出しするにしても、それをわざわざ取り上げるだけで、それ自体の価値を高めることになると言うのです。では、「取るに足らない」言説にはどう対処すべきか、というと、「取るに足らない」の文字通り、「無視」するしかない。本当にその通りだと思いますよ。
こう書くと、あたかも国粋主義者の片棒を担いでいるのではないかと思われるかもしれず、それは非常に心外なので、実例を挙げてみます。(注:ここは都合上「取り上げます」が、本来は「取るに足らない」ものです)
例えば、在日韓国大使館サイト。そのどこでも同じなのですが、まあ、バナーまでわざわざ作っていて目立っている、「東海」のところ。(http://www.mofat.go.kr/en/en_Eastsea_jp_1.mof

2000年の歴史を持つ名称「東海」
1.序論
ユーラシア東部に位置する東海は、韓半島、ロシア、日本に囲まれた海である。2000年間、この海の名称は東海であった。韓国最古の歴史書である「三国史記」には、東海という名称が紀元前37年から使われたと記録されている。また、中国東北地方に残る高句麗時代の414年に立てられた広開土王碑にも、東海という名称がはっきりと刻まれている。つまり、日本という国号は8世紀から使われ始めたが、東海はその700年前から使われていた名称なのである。

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そもそも、『三国史記』という書物は、1145年成立です。その12世紀の書のなかに、「紀元前37年」 *1 の出来事の記事として「東海」ということばが出てくる。だから、「東海」という名称は2000年の歴史を持っている、と主張しているのです。
・・・・・。
正気の沙汰ではありません。韓国外交官の知能レベルの低さを本気で心配しています。その理屈を通せば、我が『日本書紀』(720年成立)に登場する神武天皇(計算上は、紀元前660年即位)が、

因りて腋上の×間丘に登りまして、国状を廻望みて曰はく、「×哉、国獲つること。内木綿の真×国と雖も、猶し蜻蛉の臀呫せるが如もあるかも」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲の号有り。 (神武三十一年四月)

(即位してから三十一年、天皇がワキガミのホホマの丘に登って国の様子を眺めて言った、「ああ、なんと美しい国を手に入れたことか。狭い国ではあるが、蜻蛉が交尾をしている形のようだな」これによって、初めてアキズシマという国名が生じた)と言っているわけですから、「秋津洲」という名称は、2600年の歴史を持っていることになる。ちなみに、『日本書紀』はこの後にさらに面白い話を続けているので(むしろ、そちらを引用したほうが良かったのですが)、興味のある方は御覧になってください。
それでは、次。広開土王(好太王)碑ですね。彼らによると、「東海という名称がはっきりと刻まれている」・・・これは、隣国ナショナリストたちが日本非難のために常用している常套句で言えば、明白な誤った歴史認識
広開土王碑文の該当箇所を挙げてみましょう。金石文なので、字の読み方は研究者によって一定していませんが、とりあえず、白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』の釈文を用います(一部、新字体に改めました)。

守墓人烟戸売勾余民国烟二看烟三東海賈国烟三看烟五(以下略) (283頁)

この箇所は、広開土王の墓を守る役割の人間(守墓人)を、征服した土地から合計三百三十戸を強制的に選出し、どの地域出身者をどれだけ割り当てるか、ということを記録したものです。「国烟」「看烟」というのは、その墓守の地位の上下を示すものだと言われています。「売勾余民」からは「国烟」が二戸、「看烟」が三戸。そして、次に「東海賈」というところから「国烟」三戸と「看烟」五戸を選び出したということになっている。「東海」と刻まれているのは、碑文のなかで、ここだけです。
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「東海」とは陸上の地名ですよw これだけで既にアウトなのですが、ダメを押させてもらえれば、これが陸上の地名ということになると、「東海賈」が「東海=賈」という語構成かどうかすら怪しい。「東=海賈」の可能性だって十分にあるわけです。ちょうど、「東浜松」が「東浜=松」(東浜に生えている松?)ではなくて、「東=浜松」だというのと同じように。
冒頭の数行でこの惨状です。もはや、残りの文章を真面目に取り合わなくてはいけない根拠は失われた、と宣告しても構わないでしょう。
この際なので、もう一言。あちらのナショナリストたちは、なんとかの一つ覚えみたいに、とにかく先陣争いをしたがる。「東海の名前は日本海より先に文献に出ている」とか。はっきり言って、「あなたたちのローカル名が何年に出ているからって、それがどうしたの?」と言えばそれで済むのですが、敢えて同じ土俵に乗ってみましょうか。もし、早い者勝ちということであれば、あの海は「日本海」でも「東海」でもなくて、「越の海」(こしのうみ)と呼ばなくてはいけないでしょう。大伴家持(718年?〜785年)の歌にあるじゃないですか、弟(書持)の死を哀悼する歌に。(746年)

かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを (巻17・三九五九)

(こうなると 前から知っていれば 越の海の 荒磯の波でも 見せてあげればよかったよ)「越」とは、後世でいうところの、越前・越中・越後ですから、ニュアンスとしては「北陸地方の海」という感じでしょうか。12世紀の『三国史記』よりも、だいぶ前の用例ということになりますね。
以上のような妄言が、民間メディアや言論人のことばではなく、公的機関の公式サイトに堂々とのっているということに深い憂慮を持ちますが、正直いって「取り上げるだけ無駄」なので、明日以降は、また普段のブログ生活に戻る次第です。
・・・桜花賞の予想のほうが、比較にならないほど、はるかに有意義。
以下、追記
誰も誤解する人はいないと思いますが、念のために申し上げますと、朝鮮半島の人が「日本海」を指して「東海」と呼ぶことが馬鹿げていると主張しているわけではありません。ちょうど、われわれ日本人が、紛れもない日本領である北方四島アイヌ語に由来する島名で呼び、ロシア人はロシア人の立場からあの島々をロシア名で呼ぶのと同じように。

*1:三国史記』巻十三(高句麗本紀第一)の「東海之浜有地、 号曰迦葉原」を指すと思われるのですが、後述の通り、これも陸上の「東海」だろうよ・・・w