「高天原故地」

 御冥福をお祈りいたします。

 馬渕和夫氏(まぶち・かずお=筑波大名誉教授・国語学)11月24日、病気のため死去、93歳。葬儀は近親者で済ませた。後日お別れの会を開催する。喪主は長男、一誠(いっせい)氏。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/111201/edc11120120260003-n1.htm

 御著書のなかで私が最初に目を通したのは『上代のことば』だったと記憶しています。いろいろと勉強いたしました。
 ですが、これだけはちょっと、というか後日談が気になるのですが、というのを一点だけ。

三「「高天原」の故地」は、『古事記』の天孫降臨の条に、日向の高千穂之久士布流多気に天降った邇々芸命が、
  この地は韓国に向ひ笠沙の御前にまぎ通りて、朝日のたださす国、夕日の日照る国なり。故、此の地甚吉き地なり。
とおっしゃって宮殿をお造りになった、という話を載せる。この「朝日のたださす国、夕日の日照る国なり。故、此の地甚吉き地なり」ということばから想像するに、今まで天孫族のいた韓国の地は、朝日もただちにはささず、夕日もすぐに隠れてしまう地ではなかったか、と思いついたのが始まりで、特にそんな地を探したわけでもなかったが、たまたま、韓国滞在中、大邱から海印寺へ行く途中通りかかった高霊の地が、まさに自分の想像していた地形にぴったりと一致し、しかもそこが昔の大伽耶国であったので、そこを高天原の故地と考えたのである。なお、最近加耶大学校総長李慶熙先生から私説に賛同する旨の書簡をいただき、「高天原故地」という記念碑を立てたいから、その字を書けと御命令があったが、ちょっと気のすすまないことでもあり、おことわりをした。結構なことではあるが私が書いたのではぶちこわしだと思ったからである。

(『古代日本語の姿』「後記」766頁。所収論文「「高天原」の故地」に対する御自身による補足説明)
 この「高天原故地」などという(おぞましい)碑は、結局建立されたのでしょうか。