花札の図柄を詠んだような歌を、もう一首。
武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ
『甲子夜話』(巻七十)で「古歌」、『徳永種久紀行』(「ゑどくだり」)でも「古き歌」とされていて、近世初期にはよく知られていた古い和歌のようですが、素性がよくわかりません。歌のできばえはともかく、武蔵野の広大さと冷涼さを平明に詠んでいて、親しみやすく、耳には残りますね。
さて、上の句は『続古今和歌集』に収録されている源通方の歌とそっくりです。
武蔵野は 月の入るべき 峰もなし 尾花が末に かかる白雲
(『続古今和歌集』秋上)これは『東海道中膝栗毛』の冒頭で、「武蔵野の尾花がすゑにかかる白雲と詠みしは……」と言及されるので、ご存知の方も多いでしょう。
また、この「草より出でて……」の古歌は『土佐日記』に記録された貫之の歌のパロディだということに気づきました。
みやこにて 山の端に見し 月なれど 波より出でて 波にこそ入れ
(一月二十日)山地に囲まれた平安京では月は山から登って山に沈むのが常の風景だったので、海の彼方から昇り、沈む月の姿は都会人にとって新鮮だったのでしょう。草原から登る月はなおさらで、月に芒(3)で紹介した良経の歌に対して本居宣長が「草の原より出るは、いとめづらしきなり」(『美濃の家づと』)と注意を向けるのは、歌の勘所をよくつかまえていると思います。