ホメオパシーとしての飲酒――「酒は百薬の長」の意味の変化

 先日、ある夫婦(?)の会話を聞いていて「おや?」と思いまして。
 酒好き(であろう)のご主人が「酒は『百薬の長』と言うからね・・・」と言ったのを奥さまが聞き咎めて「酒より薬飲んだほうがいいに決まってるじゃない」とたしなめられてご主人が苦笑しているという場面だったのですが、最初はわたし意味が全くわからず。
 すぐに気づいたのですが、どうやらこの奥さま、酒を「百薬」のなかに含めてないらしいと。獅子は百獣の王であるといったら獅子は百獣に含まれないのかしら。
 おかしな話もあるものだと思ったら、『日本国語大辞典』(第2版)の記述で驚きまして、

酒は適量に飲めば、多くの薬以上に健康のためによい。

 曖昧な表現なのですが、これを素直に読めば、やはり酒は「多くの薬」に含まれていないようです。これやいかに。
 以上のことをネタに話をしましたら、非常に明快な反応がありまして、「それはおまえ、先日怒り狂っていた例のアレで、酒はホメオパシーだからね。」ああ、そうか、酒はレメディだったのか。若干の医療効果が証明されているワイン等のアルコール飲料と、気休め以上の効果がない砂糖玉が同列に扱われるのは心外ですが、これで全て合点が行きました。
 本当に正しいかどうかはともかく、こういうことです。わたしを含めて飲兵衛は酒を四六時中讃美すること倦まない生き物でして、「酒は百薬の長」などという古い賛辞(『漢書』食貨志・下に由来します)をも伝承してきたわけで、従来は、酒は薬の中で一番効果がある、だから宴会に欠かせない、という原義で使ってきたものが、近代医学の成立によって、どうやら風邪や炎症や気の病を治すのはアルコールではないらしいということを知ってしまいます(気の病については一定の効果があるかもしれませんが)。
 こんにちでは「酒は医薬品である」と真顔で言ってしまうと、「ホメオパシーは治療法として有効である」と同様に白い目で見られるのは必定。さりとて、長いこと保ってきた「百薬の長」の地位を剥奪するのは忍びない。そこで飲兵衛たちは、この諺の意味を少しずらして用いるという荒技を編み出したわけです。
 まず酒を「百薬」から切り離した上で、「適量に飲めば」という、飲兵衛以外の人たちにも受け入れられやすいような常識的な文言を滑り込ませ、さらに「健康のためによい」、つまり、実際に病気を治すというより病気予防・健康増進の観点からいって医薬品以上の薬効が期待できる、その点で「百薬の長」であると、こういう風にしたのではないでしょうか。
 仮にこれが正しいとしたら、この転義を定着させた飲兵衛たちの政治力はなかなか大したものです。なお、この話はわたしが少々酩酊しているときに思いついたことなので、ネタとして聞いてくだされば幸いです。
 余談ですが、正倉院文書のなかで「薬」を購入する文書があって、ある時期においてその「薬」はどうやら「酒」を憚って「薬」と称していたらしいということを指摘したのが、丸山裕美子氏です。もっとも、この「酒」はアルコール分を含まない甘酒のようなものだったようですが。