地形考証の厄介さ

 悠久の時の流れは大地の姿を大きく変貌させる(その辺りのことは日下雅義氏『地形からみた歴史』(講談社学術文庫)等々、概説書も多い)。まさに「桑田変じて海となる」(劉希夷「代悲白頭翁」)で、今目にしている風景が何百年、何千年も変わらないままだというのはあり得ないことです。
 それを頭のなかでは理解していても、たとえば目の前にある/ない山や島がほんの少し前までなかった/あった可能性を考慮して考証するというのは、感覚的になかなか困難です。



 まあでも今ならCGで処理できるよね、きっと!次回以降に期待。
 中国文学者の筧文生氏も面白い告白をなさっていました。

 地図では、失敗したことが何度もある。その最初は、中国詩人選集二集『梅堯臣』(一九六二・八 岩波書店)に付した「梅堯臣略図」である。中学か高校の社会科の地図の中国の部分に、パラフィン紙を当てて、上からなぞったものに、梅堯臣に関係する地名を適当に書きこんだ気がする。東洋史の友人は、印刷されたその地図を見たとたん、笑い出した。
 「宋代にはまだ崇明島などなかったはずですよ。」
 そんなこと考えたこともなかった私は、しばし呆然とした。崇明島とは、長江の河口にある大きな島で、現在は上海市に属している。『中国大百科全書・中国地理』(一九九三・六)によれば、崇明島は(中略)中国第三の大きな島で、その面積は一、〇四一・二一平方キロメートル、人口七三・四三万人。七世紀の唐初のころに、はじめて東西二つの砂洲が水面にあらわれ、次第に大きくなって、一六世紀明の嘉靖年間に、大体今の規模になったという。しかし、一九五〇年代の初期、その面積はまだ六〇〇平方キロメートル余りだったというから、わずか五〇年足らずのうちに、ほぼ倍増していることになる。(中略)
 『中国歴史地図集』第六冊 宋・遼・金時期(一九八二・十 地図出版社)を見ると、たしかに崇明島はえがかれていない。(中略)そして第八冊の清時期になって、やっと今日の形にほぼ近いものになる。やれやれ、島一つ描くだけで、こんなに厄介な考証をしなければならないとは思いもしなかった。(中略)
 失敗の二つめは、中国詩文選『韓愈 柳宗元』(一九七三・八 筑摩書房)に付した「韓愈 柳宗元関係地図」。崇明島は、ぬかりなく抹殺しておいたのだが、同じ東洋史の友人は、地図を見たとたん、また言い放った。
 「唐代の昌黎は、こんなところじゃありませんよ。」
 「えっ、ウッソー。」
 しばらくは声も出なかった。(中略)
 昌黎の位置は、鑑賞中国の古典『唐宋八家文』(一九八九・六 角川書店)に付した「韓柳関係地図」で、やっと現在の遼寧省朝陽市附近に移動させることができた。ところがどうしたことか、崇明島がまた入ってしまった。地図を描くことが苦手なために、編集部のスタッフにまかせっぱなしにしたせいである。

(『長安 百花の時』(研文出版 2011年)所収「地図が大好き」(初出1997年)305〜307頁)
 参考:『梅堯臣』の「梅堯臣略図」、赤線枠内が崇明島。